脱サラ議員奮闘記
『あなたが動く 社会が変わる』 山根一男(岐阜県可児市議会議員)
≪実践編2≫
一番頼りにしていた、現職の市民派女性議員から選挙に出るのはやめたほうがいい…と言われたことはショックだった。
理由は、対抗馬として地元選出の現職国会議員の政策秘書が出ることが分かったからである。しかも、年齢は43歳で自分より二つ若い。2002年10月の選挙は、市長選に付随して行われる市議会議員の補欠選挙で、議席はひとつしかない。
自分が勝てる要素があるとしたら、候補者の中で目立って若かった場合である。現職の可児市の議員を見ても、40歳代は一人しかおらず大半は50歳代後半から60歳代の方であった。
でも、これで若さという点をアピールすることは難しくなった。また、現職の代議士秘書とポッと出の新人では勝負にならない…というのがこの地域の常識でもある。真剣に悩んだ。
ただ、不思議とやめようとは思わなかった。相手が代議士秘書であれば、市民派議員を目指す者として不足はない。ここで勝てたら日本中のニュースになる。恐いもの知らずとはよく言ったものだ…
すでに選挙まで1ヶ月を切っていた。選挙管理委員会による選挙説明会にも一人で出かけた。自分も含め、5陣営が来た。同じ町内に住む前回の選挙に落選した人が来ていて焦ったが、その後その人は辞退された。
刻一刻と投票日が迫って来るのに、いまだに、選挙戦を戦うだけの人がいない。ポスター貼りだけでも210ヶ所もあるのだ、選挙カーも回さなければならない。選挙では事務長とか参謀とか呼ばれる人がたいへん大きな力となる。その参謀がいない。
私は選挙を、市民活動の延長戦上でやろうとしていた。でも、それは違っていたようだ。選挙に出ることを相談した15人に、ミーティングの日程を記した案内を送ったが、5回のうち来てくれたのはたった一人、それも隣の市の人だった。
私は頼み込むのが下手だった。あくまでも自発的に応援してやろうという人が出て来るのを待っていたのだ。ボランティア活動ならともかく、こと政治となると多くの方のガードは固くなり、そう簡単には動いてくれない。
それでもビラ配りや、朝夕、交差点や駅前に立ってのパフォーマンスは続けた。夜は知り合いに電話したり手紙を書いたりして応援を求めた。自分なりに政策をつくって演説の練習もした。選挙カーや選挙事務所の看板の手配もできていた。選挙事務所も駅前正面の廃業した寿司屋さんを15万円で半月ほど借りられることが決まった。
事務的なことと、政治的な活動を同時にやるのはたいへん辛いが他にやってくれる人はいないので仕方がない。でも、せめて選挙期間中だけでも応援してくれる人が集まってくれないと、選挙にならない。告示まであと10日と迫っていた。
私は、神仏に拝むことはほとんどしなかったが、近所の薬王寺というお寺の前を通ろうとした時、思わず足が向いた。疲れ果てており、森に囲まれた空間に癒しを求めた。涙があふれてきた。これまで45年間生きてきて、本気で応援してくれる人が一人もいない。我が人生で最大のピンチを迎えつつあった。
でも、そのお寺でびっくりするような人に出遭った!
…つづく
(山根 04年3月)
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