脱サラ議員奮闘記
『あなたが動く 社会が変わる』 山根一男(岐阜県可児市議会議員)
≪実践編1≫
2002年8月ようやく女房もくどいて、選挙に出る環境は整った。しかし、何から手をつけたらいいのだろう。10月27日の選挙まであと二ヶ月半しかないのだ。『市民派議員になるための本』(学陽書房)と首っ引きでやるべきことを整理した。
まずは、政策を記したリーフレットをつくることと、ポスターやちらし用の写真を撮ることである。寺町さんから市民派議員のポスターを何枚もつくっている岐阜市のカメラマンを紹介してもらった。
8月後半の残暑厳しい日、世界一のバラ園で有名な花フェスタ記念公園でポスターの写真を撮った。百何十枚も撮った写真の中に、たった一枚だけ本当にいい写真があった。このポスターだけで千票以上取れたという人がいるくらいである。
それから瀬踏み行為といって、選挙に出ようと思うがどうだろうか…という相談をした。応援してくれそうな人やそういうことに詳しそうな人15人ばかりに会ってみたがみごとに空振りだった。一緒に市民活動などをやってきた方が中心だったので、きっと社会を変えるためなら…力になってもらえると思っていたのだが、そうはいかなかった。
ことごとく反対された、そうか出るのはいいが陰ながら応援はする…という人ばかりで、一緒にやりましょうと言ってくれたのは唯一年下の31歳の男性ただ一人だった。ただ苦笑したのは、その彼も選挙に出たいと考えており、今回は手伝うがその次には自分が出るという考えの持ち主だった。市民活動と政治は違うのだということを嫌というほど知らされた。
結局、ブレーンになってくれそうな人は見つからない。唯一、行動を共にしてくれると言った31歳の彼は、急遽つくった政治団体の会計責任者や、ポスターの掲示責任者などを引き受けてくれたが仕事が忙しく、ほとんど日常の手伝いはできない。
あと頼りは、10月に補欠選挙があることを教えてくれた、市民派女性議員だけだった。しかし、議員であればいつかは同じ選挙を戦わなければならならない相手でもあり、どこまで頼ってよいか…線引きが難しかった。
本当に何もないところからのスタートだ。お金も退職金の最後の残りで50万円ほどあるだけだった。私は、ひたすらリーフレットをばらまき続けた。朝、夕には駅や、交通量の多い交差点で、看板を持って立っていた。緑のたすきをかけ、オレンジの自転車の前で手を振ったり、お辞儀をしたり、ちらしを配ってアピールした。
こうして毎日一人で、交差点や駅前に立ってアピールした。インターネットで買った2万円のハンドマイクを肩にしていたが、なかなか演説などはうまくできない。リーフレットも自分の足で7000枚以上まいた。すこしづつ話題になり始めていた。
しかし、私の名前を知る人は、ほとんどいないし、10月に選挙があるということを認識している人も少ないので、多分、変なやつがマイクを持って交差点に立っていたというだけのことかもしれない。
一人ながら、ようやく活動が軌道に乗ってきた頃、一番頼りにしていた市民派女性議員の方から言われた。あんた、やっぱりやめたほうがいい。絶対に落ちるから…
…つづく
(山根 04年2月)
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