脱サラ議員奮闘記
『あなたが動く 社会が変わる』 山根一男(岐阜県可児市議会議員)
≪決意編1≫
年収700万円、月々2万円の活動経費がつく、拘束されるのは年のうち通算約2ヶ月。あとの10ヶ月は自由にデザインできる。上司や命令する人はおらず、ただ市民に対して忠誠を誓う。
これが脱サラし、その後1年半の失業生活の末、手にした市会議員という職業の条件である。今どきこれほど自由度が高く、それ相当の収入があり、査定もないのは議員か大学教授くらいではないだろか?(大学教授はそんなに甘くないかも…)
ただ議員は4年に1度は失業する。 高校・中学・小学校と三人の子育て真っ最中で、住宅ローンも抱えた中高年世代としては、なかなかチャレンジできない職業だ。
『あなたが動く 社会が変わる』という大阪ボランティア協会のキャチフレーズに染まっていた私にとって、ある頃からボランティアやNPO活動は、片手間でできることではなくなっていた。98年に会社の左遷人事で大阪を離れ、岐阜県の可児市に転勤になってからもその思いは変わらなかった。それどころか自分は岐阜県という超保守的な土地に、大阪という市民活動の最先端をいくまちから送りこまれた戦士だ、と思い込むようになっていった。
サラリーマンとしての自分はいくらでも代わりがいるが、市民活動家として社会を変えていくことを目指せる自分には代わりはいない……ボランティアに大切なのは、思い込みと思い上がりの精神らしい。私は、まさにその典型であった。
会社の仕事のほうは、不景気で給料も年俸制となり毎年確実に減っていった。22年間サラリーマンを続けてきたが、年々職場環境は厳しくなる一方で昇格からも見放され、ただただ我慢しながら定年まで勤めるしかない状況だった。
2001年の暮れ、会社のリストラの一環で早期優遇退職の話があった。相当悩んだ末、条件がよかったことと活力にあふれ気力・体力ともに充実している今を逃したら一生後悔するぞという思いが、勝った。自分を崖っぷちに追い込むことで、自分の人生を新たに切り拓くことを決意した。44歳の時だった。
…つづく
(山根 03年11月)
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