参加レポート「行ってきました○○へ」
市民ライター養成講座と文学学校(2) (04年1月)
■ 作家と市民ライター ■
作家も市民ライターも書くひと。でも、どっかちがう……講師のことばから引用すると、
「文学学校」… 「文学は、知らせる事じゃない、わからせる事じゃない。感じさせること!」
「市民ライター講座」… 「市民ライターは、ひとがまだ気づいていないことに気づいて、知らせる事、わからせる事、動かすこと!」
文校で、『作家の目』という話があったので、両方の目を比較しちゃいました。できるだけ講座から引用しています。
結果から原因を追求するのが『作家の目』。例えば、幼児虐待をする母親が、今目の前にいる(結果)。なぜそれが起ったのだろう(原因)。これを書くのが小説である。(そうだったのか!) 自分の体験を基にして、母親の置かれている状況や過去、社会の問題など、想像力を働かせ、結果から原因を追求する。日常の意識の中では『作家的な目』は働かない。自分の見方、考え方、感じ方をもって、すべてに対してなぜだろうという『作家的な目』を養う。
かつて、文学は神の視点で書かれていた。作者は神様みたいに何でもご存知だった(ほんとだ!)のだが、今は、人間の視点で書くことが確立されている。事実を基にしている場合でも、誇張したり、いろいろ加えたり、削ったりして、想像力を働かせ全然違ったものにつくりあげる。例えば、暗い過去をひきずって、悪いとわかっていながら手をだしてしまう母親の苦悩に焦点をあて、そんな母を憎みながらも愛する子の切ない絆や愛のない夫婦関係、冷たく突き放す隣人たちなど、他者との関係によって成立している自我の追求、自分捜しを主要なテーマにしているものが多い。
(ストーリーを追うだけのものは少なくなっているよね。)
『市民ライター的な目』ってどんな目だろう。ここで言っている市民とは、『自治の主体としての自覚を持ち、行動する人々。さまざまな社会の当事者だと自覚して、(当事者だから被害を受ける場合もあるし、意志のある無しに関らず、加害者に立ってしまうこともある)社会の問題を生活の一部に盛り込むような生き方をしている』ひと。そういう市民が、個人ではなくこの社会の中で、ひとの気づかないことに気づく目といえると思う。人の気づかないことなので、自分の考えや活動に共感するひとを増やすためには、事実を正確に伝え、説得しなければならない。「〜らしい」「〜みたいだ」ではひとはついてこない。調査や取材・インタビューをして、論理的な文章でせめないと、説得できないのである。(でしょう?)
市民ライターが幼児虐待を見たとしましょう。 彼は幼児虐待が珍しいことではなく、こんなに頻繁に、しかも普通の家庭で起るのは、母親の過去に問題があるのではないかと思う。 そこで、新聞記事やサイトでいろいろな幼児虐待の事例を調べ、学校や近所を取材したり、いろいろな家族・特に母親たちにインタビューをしたりする。すると、母親がかつて虐待の犠牲者であった例が非常に多いことがわかる。精神科医に聞いてみると、母親に対して過去の心の傷をケアすることが虐待の連鎖を防ぐのに有効だとわかる。
そこで、彼は発信する。地域の保健所に相談にいくより、もっと気軽に母親がカウンセリングを受けられるように、年配の女性による地域での個別対応(おばあちゃん制度)を作ろうという提案を、「市民ライター通信」に投稿した。この投稿が反響を呼び、某地区では有志が集まり仮制度を作ることになった。(すごい!)調査や取材で裏付けをとったり、数字を提示したりできると、読む方はなるほどなって確かに思うよね。
こうやって二つを比べて見ると、書く姿勢はかなり違うと思う。もちろん文学でも、調査や取材・インタビューをすることはありますよ。でも、ひとを感動させるものを書く事が目的だし、共感する人が読者になる場合が多いんじゃないかな。文学が社会を動かすこともあるけど、あくまでそれは結果であって目的ではないと思うわけ。そこが、作家と市民ライターにとっての書く意味のちがいでしょうね。
作家にとって、書く事自体が目的なのに比べて、市民ライターの目的は社会を動かすことで、書く事は手段のひとつといえると思う。 育てる書き手の姿勢が違うってことは、書くスキルを養う方法もちがうのだろうか。その辺のことは次回に……。
講座を受けて考えたことを、講師のことばや講座から、勝手に独断と偏見でまとめました。意見のあるかたは、是非、お寄せ下さい。
(ジョー)
自分で調べたい人はこちら
↓ ↓
大阪文学学校
http://www.osaka-bungaku.or.jp/
市民ライター養成講座
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpaoh102/civil/
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