市民ライターのキモ 〜 その真実と技術 2005年11月20日
(22) 書けるところからどんどん書いていく
吐山継彦
▼文章が書けない、という人がいる。口頭で司会をさせたり、ちょっとしたスピーチはとても上手なのだが、いざ「何か書いて」と頼むと、原稿用紙二枚ぐらいの分量でも四苦八苦して、やっぱり書けない。本人も心苦しく思うらしく、何度頼んでも、「私には文章は書けないから……」と諦めてしまう。
▼実は書けるのである。しかし、本人が書けないと思い込んでしまっている。書ける内容は持っているし、書きたい、とも考えているのだが…。その人が何気なくEメールに書いてくる活動報告などを読むと、「この人は書ける人だ」と確信が持てるし、書いてみれば絶対に書けると思うのに、本人が「書けない」と思い込んでいるから始末に悪い。こんな人は、何事もうまくやりたい、という意識が強すぎるのかも知れない。うまく書こう、うまく書こう、とすれはするほど書けなくなる。書くことについて、大げさに考えすぎるのだ。
▼書けないもう一つのタイプは、文章というものは最初のセンテンスから最後の一文まで、順番を追って書くべきだと思っている人だ。こういう人は、出だしが書けないと次へ進めないので、結局何も書けなくなる。たとえ出だしがうまく書けても、どこか途中で挫折すると、それより前へ進めなくなるのだ。
▼このような人に言いたいのは、とにかく書けるところから書く、ということだ。もし、最後の一文が決まっているなら、それから書き出せばよい。とにかく、頭に浮かんだ言葉をパソコン画面の白いキャンバスに書いていこう。すべて箇条書きでよい。
▼箇条書きで、自分が書きたいこと、書かねばならないことを書き連ねていく。そして、その箇条書きが十とか二十とかなになれば、その一つひとつに肉付けをしていこう。例えば、「60年代後半という時代の特色」について書いているなら、当然、「カウンターカルチャー」という言葉が箇条書きの一つとして出てくるだろう。
▼それを敷衍していけば、「ヒッピー文化の隆盛」とか、「大学における全共闘の台頭」とか、「ウーマンリブからフェミニズムへ」といったキーワードが出てくると思う。そこまでくればしめたもの。それぞれの項目について、自分の知っていることを書き、知らないことは調べて書けばよい。
▼そして最後に、それら文章のブロックを、編集していけばよいのである。「ヒッピー文化の隆盛」は、「ウーマンリブからフェミニズムへ」より、後に置くべきなのか先に置くべきなのか…。つまり、文章も映画と同じで、撮れる(書ける)ところ、撮って(書いて)いけるとことからどんどん先に撮って(書いて)いくのだ。そして、後からそのラッシュを見て、切ったり貼ったりの編集作業を行う。つまり、文章も映画も結局は「編集」なのだ。
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