市民ライターのキモ 〜 その真実と技術
吐山継彦
(11) 「市民ライターの文体」
●市民ライターは、どういうスタイルの文章を書けばいいのだろう? もちろん、そんなものは各自がそれぞれの文体を持てばよいことなのだが、とは言っても、小説家ではないのだから三島由紀夫風の美文を書くのもヘンだし、そうかといって新聞の短いニュース記事のように無味乾燥なのもどうかと思う。なかなか難しい問題である。
●市民ライターは、自分の気持ちを書くというより、客観的に出来事や人物をレポートすることのほうが多いから、エッセー風の身辺雑記では困る。ここを間違える人が多い。書いて欲しいのはあくまでも社会的なレポートであり、「私はこう思う」とか「こう感じた」というのは、誤解を恐れず言うなら、付け足しである。基本は明解な報告文だ。
●そうは言っても、学生のレポート提出の文章の稚拙さや事実だけを箇条書き的に報告する面白味のないものでもいけない。何か雛型になるような文章のお手本はないか…と思っていたときに読んだのが大隈秀夫著の『文章の実習』という本である。たまたま古本屋で入手したのだが、日本エディタースクール出版部発行で、昭和50年5月20日第1刷、総和53年9月1日第7刷である。大隈は東大卒業後、西日本新聞社に入り、後に退職して大宅壮一に師事したルポライターだ。
●この本では、門下生だけあって大宅壮一の思い出話がよく出てくる。ところが、大宅壮一といっても現在では知らない人も多いと思うので、若干人物紹介をしておくと、あの大宅映子の父親にして、大宅文庫の主だった人だ。高度成長期にはマスコミ界の寵児だったと言ってよい。大隈をはじめ、草柳大蔵など弟子筋に当たる人も多い。
●その大宅壮一は、どんな文章を書いたのだろうか。同書から荒垣秀雄(朝日新聞の「天声人語」を17年間担当)を孫引きすると「大宅さんの文章は毒舌が多く、表現もどぎつい。読んでアッと思うような"意外性"の要素に富む。ズバズバと虚をついてくる。"殺陣"の名人だ。それでいて感覚のバランスはよくとれている。奇略縦横、奇想天外のように見えるが、底辺は非常に良識的だ。何よりも時代感覚が的確である。庶民の胸底にモヤモヤしていることをつかみ出してズバリと言ってのける。胸のすくものがある。(スーパーマン大宅壮一の人間味)」というようなスタイルだった。
●市民ライターは"マスコミ界の寵児"の真似をする必要はない。ただ、荒垣の大宅評の「それでいて感覚のバランスはよくとれている」以降は市民ライターにも当てはまるのではないか。そして、大宅自身が言ったという同書の中の言葉。「平たくいえば、民芸品のような文章を書くことだな。民芸品というものは、名もない農民や漁民がつくったものだが、長い間の星霜をへて、まだ残っている。実用性もあるし、芸術性も兼ね備えている。そんな民芸品のような文章が書けるようになったら、しめたものだ」。これこそ、市民ライターが目ざすべき文体なのではないだろうか。
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