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◆◇「納得」するということ… ◇◆
「納得」、最近の「マイ・キーワード」の一つです。
人は、どういう時、どういう状態で「納得」するのだろうかと…。
きっかけは、自身が被害者の親となり、“納得のいく”解決、“納得のいく”示談や補償(賠償)交渉を進めようということで、「JR福知山線事故・負傷者と家族等の会」を発足させたことに始まります。
2005年4月25日、JR福知山線(宝塚線)で、未曾有の事故が起きました。まさかと思った我が子(次女)も、通学のため、その列車に乗り合わせていました。
あの年の4月に大学生となった次女が、JR福知山線(宝塚線)を使って通学することを知っていた幼馴染の親友が、大変な事故が起こっていることを電話で知らせてくれました。そして、何気なくテレビをつけて、息を呑みました。しかし、まだ他人事でした。
その後、段々不安になり、次女が、その列車に乗ったかどうか、また、事故に遭ったのかどうか、無事なのか、生存しているのかなど、時折よぎる「真っ黒な思い」につぶされそうになるのを必死に追い払いながら、携帯電話をかけ続け、携帯メールを送り続け、ただただウロウロと歩き回り、そして祈り続けていました。
最後に病院からの電話で、事故に遭っていたことが判明するまでのあの3時間は、私にとって二度と味わいたくない時間です。
心臓がむき出しで、剣山のようなものでガリガリ掻き毟られているような、そんな状態でした。
今でも、少しでも次女と連絡が取れないようなことがあると、
私の中での「トラウマ」となって、あの時の苦しさが甦ります。
※この時の思いや記録については、神戸新聞総合出版センター発行 「JR福知山線脱線事故・2005年4月25日の記憶〜あの日を忘れない〜」の中で、29名分の手記として、次女の手記とともに詳細に書きましたので、もしも折がありお読みいただければ幸いです。
次女は、もっとも激しく損傷した2両目の車両前方から、まさしく九死に一生を得て、奇跡的に助け出されました。一般的な怪我としては重傷の部類ですが、あの事故での怪我では、「軽傷」なのかもしれません。
しかし、ほんの数十センチ、立っていたか座っていたかで、運命が分かれました。あの苦しみのあと、「生きた、暖かい」子どもと出会えるか否か、あの苦しみのあと、さらにもっと突き放されるかのような「絶望」と向かい合うこと、今でも想像しただけで涙が溢れます…。
その後、搬送先の病院で別の被害者の家族と話をする機会があり、当事者同士で話ができること、相談できることが、どれほど安心で心強くなれるかの経験から、「からだ」「こころ」に怪我を負った被害者とその家族等の支援の活動に取り組むことにしました。
2005年5月17日からは、まずは、何でも聞け、各専門機関へもつなぐことのできる「総合情報相談窓口」を開設。電話相談を始めました。
2005年6月12日からは、月に1回ぐらいのペースで、当事者同士が安心して話せる場、「語りあい、分かちあいのつどい」を開催。両取り組みとも、現在も継続しています。
事故後の次女の様子を見守り続け、また、このような活動をし続ける中で、一番初めに書いたこと、「納得すること」が、キーワードに浮かび上がってきます。何か大きな「害」を被った時、「受身:〜された」という被害者意識が起こるのは当然だと思います。
しかし、「受身:〜された」という被害者意識で物事を捉え続けるのと、被害者として「主体的」に関わっていくのとでは、根本的な違いがあると考えます。もちろん人として、苦しみの中での「こころ」の変遷はあると思います。が、受動的な被害者であり続けることは、ネガティブスパイラルに陥ってしまうのではないか…。
どこかで、ポジティブスパイラルになるきっかけが必要、あるいは、自ら変えていく必要があるのではないか…。そのきっかけや臨界点が、「納得」ではないかと…。
岩波国語辞典によると、「納得」とは「他人の考え・行為を理解し、もっともだと認めること」とあります。私は、対象は他人だけでなく、自らの中でせめぎあう二つのものに「折りあい」をつけられた時も、「納得」した状態ではないかと思っています。前へ向いて、他者とのかかわりの中でも、自分自身の中でも、充分に「やるべきこと」、「できること」をやり切ったと思えた時に、「よし!」と納得できるのかもしれません。
私の本来の仕事は、小さいながらも会社を作ったようなNPO法人(「中間支援」とよばれるジャンル)で、人と人、人と組織などをつないで、コーディネートしたり、さまざまな側面からサポートをしたりすることです。日日の生活の中でも、仕事の面でも、一つひとつ「納得」を積み重ねながら、与えられた命、いただいた「タラント」※を大切に味のある深い生き方をしていきたいと思っています。
※聖書「タラントのたとえ」から
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